上州赤城山 戻り

 赤城山というと全国的には、年輩者は玉川勝太郎の浪曲「天保水滸伝」の中で演じられる名セリフ
  『赤城の山も今宵限り、可愛い子分のてめえたちとも別れ別れになる門出だ・・・・』
を、そして東海林太郎(しょうじたろう)の『赤城の子守歌』を思い浮かべるでしょう。
また山の好きな人は深田久弥著書『日本百名山』から赤城山の存在を知っているかも知れない。
でも四季を通して赤城山をみて生活している群馬、栃木、埼玉の人達にとっては格別な存在ではない
でしょうか。関東平野の北西の一角、群馬の東北部に鎮座する“裾野は長し赤城山”は、どんな山なの
でしょうか。


 西から南にかけて利根川、北に片品川、根利川、小黒川、東に渡良瀬川の流れがあり、四方に
開ける広大な裾野をもった雄姿はすばらしい。深田久弥は『日本百名山』の中で、
   “上野から高崎までの車窓で、一番私たちを楽しませてくれるのは赤城山である。見事なのは、
    のびのびと裾野へ引いた稜線であって、おそらくこれほど大きな根張りは、他に例が少なか
    ろう。しかも、それが少しのわだかまりも渋滞もなく、ゆったりと優美な線で伸びているさまは、
    胸がすくようである。・・・・・・”と書いている。


 赤城山は総称で国土地理院の25000分の1の地図によると
   鍋割山、荒山、長七郎山、地蔵岳、 鈴ケ岳、小黒檜山、黒檜山、駒ヶ岳の8つ
の外輪山と寄生火山からなっている。山岳信仰という点でも大沼湖畔にある赤城神社の歴史は古く、
黒檜山、地蔵岳、荒山、鍋割山、鈴ケ岳の山頂には祠と石碑があり、春秋にはお祭りがなされて
いるようです。また志賀直哉や芥川龍之介らの文人も多く訪れているそうです。


 昭和30年代から40年代にかけては、大沼湖畔大洞までの車道整備、利平茶屋からのケーブル
カー敷設、地蔵岳にロープウエイ、リフトが建設され、さらに有料道路の整備と赤城山は観光開発の
ピークに達した。冬はスキー、スケート、ワカサギ釣り、春は新緑、新坂平のレンゲツツジの花を求めて、
秋は紅葉見物と四季を通してにぎわいを見せた。しかし、高度成長期に入り、全国的に大がかりな
観光開発が進められ、特色を失った観光事業は衰退の一途を辿り、環境客は減少し、年間を通して
比較的静かな様相を見せています。今、ここを訪れる人達の多くは、レンゲツツジの咲く頃は別として、
散策と軽登山を楽んでいるようです。


 でも、関東平野のそちこちから見る赤城山の雄姿はいつの世になっても変わらず、私たちの生活と
共にあり続けるでしょうし、山歩きされる方も裾野から尾根を歩かれると、ほんとうの赤城山を発見
できるのではないでしょうか。



赤城山の生い立ち
              引用書物  群馬の山       小林二三雄編著 上毛新聞社1981年発行

最初は穏やかな活動
 関東平野の北端にそびえ、群馬のシンボル的存在として県民に親しまれ、また全国にその名を
知られる、群馬の誇る名峰“赤城”。その美しく均整のとれた山容は、まさに自然の芸術である。
 ここでは、その美しい赤城山の生いたちの秘密をさぐってみよう。そこにはその姿からとても想像
できない、激しくドラマチックな火山活動の歴史がひそんでいるのである。
 南斜面を刻む粕川を登っていくと、標高900m付近に「不動の滝」と呼ばれる巨瀑があるが、
その少し下流に、足尾山地や多野山地に広く分布する秩父中古生層の上にのっているのである。
この秩父中古生層は、場所によっては、さらに高く標高1100m付近にまで分布しており、赤城の
土台がすでにかなりの高まりを示していた事がわかる。
 一方、西側の基盤は、新生代第三紀層、北側の基盤は、利根川付近に見られる
中生層(岩室中生層)である事もわかっている。

 これらの基盤の上に、数十万年もの時間をかけて、現在の赤城山が出来上がったのである。活動
を始めたころの、赤城山は、輝石安山岩質の溶岩がゆっくりと流れくだるような、比較的おだやかな
活動をくりかえしていた。そして、しだいに富士山のような成層火山に成長し、最も高くなった時には、
標高2500mほどに達したと推定される。


大爆発とカルデラの形成
この後、一時赤城山は活動を休止した。しかし、実はこの間に、次の活動に備えて、莫大な火山
エネルギーが地下に蓄積されていたのである。いっぽうこの休止期に、美しい成層火山は山体を
浸食され、山頂付近の原形も無くなるほど変わってしまっていたのであろう。 休止期の間に
エネルギーをたくわえた赤城火山は、やがて激しい噴火を起こして、再び活発な活動をはじめた。
この時の噴火では、溶岩はほとんど噴出されず、大量のガスを噴き出しながら、火砕流や泥流に
よる堆積物によって、現在のなだらかな裾野が形成されたのである。
 大爆発をくりかえした赤城山の山頂部分は、やがて大きく陥没して、そこにカルデラが形成された。
このカルデラには、やがて水がたまりはじめ、火口原湖が出来上がった。
 この後、カルデラ内に、再び火山活動がはじまり、中央火口丘である地蔵岳と、小沼火山が噴出
した。これによって火口原湖は、古大沼、新坂平湖、オトギの森湖の三つに分割された。
このうち現在残っているのは、古大沼湖に相当する大沼のみである。覚満淵は、かっての古大沼湖
の一部が水位の低下により湿原化したものである。また小沼火山の火口跡は、火口湖の小沼として
水をたたえている。
 このカルデラ内で起きた最初の大爆発は、赤城火山史上最大級のものであった。火口から噴き出
した軽石は、遠く茨城県鹿島地方にまで分布している。また栃木県鹿沼市付近で掘られている園芸用
の鹿沼土は実は、この軽石堆積物なのである。いかに激しい噴火であったか、この事でもわかるであろう。
 最後の噴火が終わって二万数千年が経っている。この長い沈黙が、赤城火山の永遠の眠りを意味
するのか、一時の眠りを意味するのか、我々には知るよしもない。

    
     鳴神山南西端 北緯36°29′13.7″ 東経139°21′49.5″ 標高964m 地点から
               6峰が左から順に高くなってい


    
     渡良瀬川葉鹿橋付近 北緯36°21′12″ 東経139°23′19.5″ 標高63m 地点から

    
      境町流通団地南西端付近 北緯36°19′05.1″ 東経139°13′59.2″ 標高73m 地点から

    
      水沢山 山頂付近 北緯36°28′39.4″ 東経138°55′57.0″ 標高1198m 地点から

    
     川場村屋萩室原付近 北緯36°41′15.4″ 東経139°06′42.9″ 標高526m 地点から


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